yurio’s diary

日々の気づいたことをのせています。

100万回好きと言ってね。

付き合いはじめの頃、

「好きです」とか言ってくれた人に対して、
「100万回くらい好きと言っていただかないと、私はわかりません。」
と申し上げたことがある。
 
超恥ずかしいが、実際私は忘れっぽくて
それまでも週に1度のデートのたびに自己紹介を要求していた。
 
日々さまざまな人と物と仕事との、出会いと別れを繰り返しジエットコースターのように深く浮き沈む感情グラフとともにある若かりし頃、
一週間は長いのだ。
一週間といえば出来たての豆腐も冷蔵庫でもう食べられなくなってくる、鍋いっぱいに作ったカレーも冷蔵庫でそろそろお陀仏になってしまうそういう期間だ。
 
つまり私は一週間も経つと、
彼がはて知り合いだったか、私のことを好きな人だったか、私も好きだったか、わからなくなってしまうトンチンなのであった。
 
100万回云々と言われた彼は当時これを決定的なゴーサインと認識したそうだが、
 
それは大変結構なのだが、
 
実際その100万回という数値はどれほどのものだろうか。
一生のうちの100万回、と思えば簡単そうだ。どうだろうか。
 
さあ、考えよう!
 
〜100万回好きと言って〜《ギブミーミリオンズオブユアラブ計画達成に向けて》
 
 
1,000,000愛➗一生=?
 
※達成行動を、言葉で「好き」と言うことと定義する
※一生 :住宅ローンの最長パタンに準じ、今から50年として算出する
※モチベーションの低下及び途中棄権の可能性は排除する
 
 
1年あたり
1,000,000➗50=好きを20,000回
 
1カ月あたり  1666回
※小数点以下切捨て、あるいは小数点以下については花束ほか言葉以外によって算入し補てんされるものとする
 
1日あたり 55回
 
1時間あたり 3.43回
 
※活動時間=16時間(睡眠時間を8時間と仮定しそれを除いたもの)
※排泄等の時間は考慮しない(トイレの中からでも達成行動は可能である。ただし相手が該当場所の近辺に居ない場合など、十分にカウントされない可能性がある)
 
【重要 でる!】日中働いている場合
1時間あたり 13.75回 必要
 
※外出時間を差し引き、一緒に過ごす時間を4時間と仮定。
 
つまり、
1分あたり 4.6回好きと言えば、
オーケーだ。
 
毎日のウォーミングアップに、ミリオンズオブラブ。
朝寝坊のあなたにはウォーキング代わりに、ミリオンズオブラブ。
言ってて恥ずかしい、ミリオンズオブラブ。
書いてて恥ずかしい、ミリオンズオブラブ。
みんなでやれば怖くない!
 
あなたにもできるミリオンズオブラブで
家庭安泰、美味しいごはんで健康アップ、安心感で収入もアップ、あなたにきっと、返ってくる。

コードのねじれについて

職場で電気ひざ掛けを買ってもらった。
 
コードを差し込み、スイッチを入れるだけで、私のひざを暖めてくれるという魔法の布きれである。
 
恐らく、10世紀ごろのどこかの寒い国の王様だったら金銀財宝積み上げても欲しいだろうが、手に入るまい。
 
そんな逸品である。
 
ところで仕事をしているとずっと座っているわけではない。立ったり座ったり食べたり飲んだり物思いに耽ったりたまに仕事をしたりする。
 
そのたびに布きれを掛けたりとったりするのは煩わしい。そのたびにスイッチ部分はあっちへこっちへひっくり返り、まこと使いづらいことこの上ない。
 
そういうわけで私は妙案を思いついた。
 
いすのひじ掛け部分に、スイッチ部分を固定させたのだ。具体的には、セロテープで幾十かに巻くだけ。
椅子に座れば、いつでも手元にスイッチがある。
 
これで、スイッチ行方不明事件は解決。
これぞイノベーションである。
職場では、しばしこの「マッサージチェアー式電気ひざ掛けスイッチ固定法」が流行し、わたしは布教のために汗を流した。
 
 
もうなんの心配もいらない。
明るい明日はすぐそこにある。
 
しかし安堵した矢先、不穏な雲が執務室を覆い始めていた……。
 
 
そう。
 
ある朝わたしは気付いた。
 
 
あれ、コード短い。
 
すごい、ねじねじしてる。
 
 
立ったり座ったり食べたり飲んだりする間に、やはりひざ掛けはめくったりめくられたりして、コードはその変化を一手に引き受けていたのだ。
 
なんということでしょう。
 
 
2年に1度くらい几帳面なわたしは、ねじれを一つずつ直していった。
1回転、2回転……その数36回転。(適当)
 
毎日何度自分が立ち上がったか、実感する機会は万歩計以外にはなかなか思いつかない。
 
わたしのひざ掛けコードは、わたしが立ち上がるたび、ねじれ、座るたび、ねじれ、しまいにはコードを椅子の着地部分で踏んづけ、首に絡まり、コンセントに向かう途中にはホコリ、お菓子の袋のカス、壊れた上司、失われた向上心などを巻き込んで、なおわたしの膝をあたためる。
 
5日間働いた後、一気にその極まったねじれを解消するときの爽快感は素晴らしい。
 
1週間に1度、ねじれを解消して快適なひざ掛けライフを送りましょう。

 

絵本の世界へダイブイン

絵本を買った。

 
わたしは毎日仕事が終わった後、家でもそもそクレヨンしんちゃんを観る生活を送っているわけだが、
このまえ絵本をたまたま手に取って驚いた。
絵本を読んでいるときと、アニメを見ている時は、感覚がすごく似ているのだ。
 
アニメはなんであんなにラクなんだろう。どうしてスッと入ってくるのだろう。
多分、生々しさがないからかも。
そしてキャラや背景がシンプルだから。
 
いつも難しいことを考えなきゃいけない(夕飯の献立、上司がいつ機嫌の良いタイミング、仕事がつまらない、給料が安い等)大人にとって、世界をシンプルに切りとった絵本やアニメは爽やかだ。
 
絵本はアニメより自分でペース配分できる分、癒し効果はより高い。
ページをめくるのもめんどくさいと思ったら、もうひっくり返って寝るがよい。
 
さらに絵本は、一緒に絵を見ながら、人に読んでもらう、読んであげる、読んであげると見せかけて肩も揉んでもらうなど、応用も効くアイテムであり、
家族を巻きこめば非常にリラックスして個々人のメンタルケアにもなる質の高いコミュニケーションを安価に実現可能である。
さらに思いきりのよい方は、ページを切り離して物語を組み替える遊びをするとよいでしょう。
 
 
さて、私は本屋で絵本を求めて小一時間立ち読みしていた。
 
絵本は、ページ数が少なく、すぐオチを見つけてしまう。
続きが気になって買ってしまう小説などとは買い方が違うのである。
値段も300円代からある文庫よりお高めだ。サイズも大きくて、自宅で読む仕様になっている。
 
何度も読みたいのはどれか、リビングに置いて嬉しいのはどれか、と吟味する。
 
結果、買ったのはこちらの2冊。
 
 
精選!おとなの絵本コレクション
①『おべんとう』小西英子
 
②『チョコレートパン』長新太
 
 
『おべんとう』は、あら、今日のおべんとう何にしようかしら、と空のお弁当箱が登場するところから始まる。
これはもう絵が、とにかく抜群。
ものすごく美味しそうなのだ。
 
ごはんの湯気が見える。匂いも感じる。
卵焼きなんて夢のような色をしている。きっと甘いタイプの卵焼きだ。
 
1度別の本屋で見かけて、釘付けになった。絵本なんて持ち歩けないし買ったことないから買わなかったのだけど、その後やはり気になって、さがしにきたのだ。
 
しかし、なかなか見つからなかった。

私の求めた本は、文字が極端に少なく、深読みしがちな大人にとってあまりに難解だったためか、赤ちゃんが楽しむためのコーナーが適切と判断されたらしかった。

わたしは赤ちゃんになったことはないので、赤ちゃんコーナーを訪れるのは初めてだった。しかしそこは、独創的で芸術的で刺激であふれていた。
 
 
黒塗りの表紙、恐怖「ねないこ だれだ」をはじめ、
タイトル「うんこ」「いちご」「おにぎり」「かぼちゃありがとう」「風がフシャー(正式名称わすれた、躍動感のある題名)」など、そのシンプルな題名からも、力強いものを感じる。
 
中身も強烈である。
もう言葉なんていらない。
起承転結なんてにっちのほっち、えっちらほっちら、作者が好きなように描いている。
 
わたしが思うに、本は、少しでも何かを教えてやろうとか、教育的な意図が考えられるものはだめである。ばれてはだめである。絵本として失格である。
 
ナンセンス絵本こそ、最高峰だ。
 
『チョコレートパン』はめっちゃ面白い。6ページくらいしかないのに、何回読んでもなんか面白くってくすぐったい。え!なにそのオチ!みたいな脱力系。意味なんてない。なんか気持ち良い感じ、気持ち良いリズム。日常にないタッチと色彩。
チョコレートパン!!
 
 
そういうわけで、センシティブな大人が癒されたいと思ったら、絵本は0歳児〜4歳児対象でまちがいない。
 
直感でフィットする絵本をえらぼう!
絵本の世界へ〜〜!ダイブ‼︎

パワーオブかわいい。

さいきん、通勤途中に可愛い洋服屋さんを見つけてしまった。

 
流行の形が多いんだけど、細部がちょっと凝っていて、バイカラーだったり、異素材を使っていたりする。店員さんはほどよい距離感で白々しくなく、一度行ったら顔を覚えてくれた。
 
洋服って、高いよね。
 
仕事が時給1000円だったら、1日8時間働いて、8000円。
 
さて問題です。
8000円のセーターを、買えるかな?
 
20日働いて、月のお給料が160000円。
一人暮らしなら、家賃が例えば65000円。光熱費10000円、携帯代7000円。食費20000円。お酒やおやつ、遊び代20000円くらいだとすると、出費計122000円。もうゼロが多くて訳わかんない。アラビア数字の限界。
 
残りは 38000円だ。1万円でも貯金しとこうと思うと、残りは28000円。
 
病院行ったりしたらもっと大変だね。
8000円のセーターを、買えるかな?
 
今日1日の働いた分で、やっと買える、とも言えるし、それだけじゃ買えないことがわかる。
 
 
わたしには、学生時代ひどく洋服の値段が高く思えた。だから働きだしてからも、3000円とか、4000円とかの服をアウトレットで買うくらいだった。
 
昔ヤマトナデシコというドラマで、松嶋菜々子がそれはもう美しく、シャネルの白いスーツとかワンピースとかを纏って、全お給料をほとんど注ぎ込んで、玉の輿を狙うべく合コンに向かっていった。
テーブルの向こうの、メンズに向かう松嶋菜々子の笑顔の上品さ。洋服の素敵さはまぶしすぎた。
まぶしすぎたけどいつか私にも、こんなきれいな格好が出来る日がくるのだろうかと思った。
それはなかなかやって来なかった。
行こうと思わなければ、来なかった。
しかしいまは、趣向も予算の規模もスチュワーデスの菜々子とは違うけれど、感動した洋服を買うようになった。
 
 
洋服って、一度買ったらずっと使えるわけじゃない。
下着とか靴下とか、例えばワイシャツとかスーツとか、必須の服のほかに、わいわい色んな服を揃えることを考えると、眩暈がしそうなくらいのコストに思える。
 
でも、可愛い服の、生活に与える、人生に与える、インパクトのすごさといったら他に例えようもないのだ。
 
明日どれを着て行こうとうきうき考えるときには、手持ちの服をきれいに一覧できるタンス、クローゼットであって欲しいから、綺麗に収納する癖がつくし、柄や色を組み合わせるのは料理の味付けみたいに難しいけど、楽しすぎる。
 
 
着ていくことが楽しみで、着ることも楽しみなら、24時間楽しみがあることになる。
それって、めちゃお買い得なお買い物な気がする。
 
どんなに落ち込んでいる時でも、尊敬する人が殺されてしまったときでさえ、美しい洋服は人を支える。
辛くて握りしめた手の中にあるのが、着古した毛玉のいぼいぼではなく、さらさらした繊細で柔らかい生地であることに、人は癒されたり慰められたりするから、大人になるにつれ、失うことも増えるにつれて、高級な服を揃えておく。よしもとばなながそんなニュアンスのことを言っていました。
 
とにかく、働いていて、かわいい服を買えている時点で私の勝利。搾取しているつもりでも買えている時点で私の勝利。松田青子もそんなことを言っていました。
 
かわいいの力はすごいです。
 
満身創痍で帰ってきて、もうしんどい。そういうとき、家に帰ってきて受け付けるのは、可愛い来季の洋服のことと、クレヨンしんちゃんだけです。
罪悪感も悲壮感も可愛い服の前では無力です。ひれ伏してときめきに身をまかせましょう。破産はしないよう気をつけましょう。
 
美しい服を着ましょう。
お年寄りになるにつれ、明るくて中性的で個性的なデザインの洋服を着たいなあ。
遠くから見てもわたしだとわかる、はっきりした発色の、洋服を‼︎
 
可愛い服を買えることの幸せを思う。
可愛い服を買えなくなるかもしれない近い未来も思う。思って今は、毎日よだれを垂らして明日着るコートを選ぶ。

讃えよ納豆

久しぶりに納豆を食べた。

 
納豆というのは元々くさった豆であるが、買ったら早く食べないともっとくさってねばねばしてとっても臭う。においすぎて、ねえ、課長、、、今日の課長、臭いよね?なんて言われてしまう。
 
だから今回は、納豆がわたしの冷蔵庫の中に待機してから、いつもわたしの心の中でも臨戦態勢であった。
 
納豆の、豊満で唯一無二の臭い。
勢いよく箸でかきまぜて、泡が立つまでねばるのが肝心だ。
ここで豆知識だが、タレを入れる前にまず納豆菌のみで、ひたすらにかき混ぜるのがポイントである。こうすると、よりしつこく粘ってオイシイというわけである。
 
しかしながら不承のわたしはいつも、あの白いパッケージを開けると、もうそこに待っている、タレの袋。茶色い透き通った液を見ると、もうすぐに破りたくなってしまう。そしていつもすぐ入れる。混ぜる。混ぜながら間違いに気づく!!!!!うおーーーー!
ぐるぐるぐる!
泡立つなっとう!
間違えたからこそこんなにも必死になれるんだ!!
無駄なことなんて、一つも、ないんだーーーー!
 
 
そして、厳かにゴハンの上に盛る。
 
しばらく、お新香をつまみ、白いご飯部分を口にしたりして、すぐ横に待つ納豆菌を横目でちらりと見ながら、もったいつけてみる。
白いご飯の量をミクロミリグラム単位で調整しながら、いまかいまかと、メンタル内で葛藤を重ねる。
ついに納豆と白い飯の割合が程よいと思われた頃、物語は佳境を迎える。
 
いざ、入箸!
茶碗に盛ったご飯の山の真ん中に、地の果てまで届く深い谷間をつくる。
そして地を揉んだり返したりした後、再び掻き混ぜる。ダマになりそうな米はきちんと細かくしていこう。
 
これぞ伝説の、
なっとうまんま である。
 
小粒の納豆はごはんにまみれ、LED電球の下光をあび、黄金色に輝かんばかりだ。
 そして、かっ込んだ…

キラキラしたもの

むかし、セーラームーンにこのような場面があった。

 
なにやらものすごく悪意を持て余した敵が現れ、不運な人が狙われる。ロックオンされた人の持ち物などにとりつき、その人の心に忍びよる。
しまいには、その人の胸をエイヤ!とやり、キラキラした結晶を取り出してしまうのだ。取られた人はキャア!となって、がっくりひざをついて動かなくなった。
 
 
そのシーンは強く印象に残った。
 
心とはなんぞや、人たらしめるものはなんぞや。
 
人間から取り出した、そのキラキラした固まりは、
普段はっきりとつかまえられない、自分の感情であったり気持ちであったり性格や良心などを納めたバラエティーパックのごとく、手に取って触れる具体的な人間の心そのもの と思われた。
 
わたしは愚かにませた小学生であったので、そんなことを思ったり思わなかったりして日がな一日鼻くそをほじったり消しカスを丸める作業に勤しむ無為で浅はかでごく幸せな子ども時代を過ごした。
 
 
小さいながらに私はその映像を、とても美しいと思った。
あんなきれいな結晶を胸のうちに入れて育てているなんて、ビバ☆人間である。
 
捉えどころのないものを、カタチにできるとうれしい。
言葉にならない気持ちを、代弁してくれるような文章に本の中で出会うと感激。
 
毎日が不安、一寸先は闇、長い景気の踊り場状態の中において、
人間は、言葉にできないもの、形にできないものを 触りたい 見たい 手に取って口に入れて確かめて 安心したいのである

 

ピアノの発表会で魔法

ピアノの演奏会であった。

 
わたしはソロアーチストとして、2時間のコンサートホールで計20曲の往年のヒット曲を弾き、満員の会場でギャラリーを打ち震えさせ、満身創痍の身体でもってアンコール、マンホール、カーテンコール等に応える代わりに、
 
会場へ行くと受付で名前を聞かれ、6千円ほどの参加費用を支払うようにと言われた。
そして20人程の会場において、10分ほどの発表を震えながら行った。手も足も歯も歯ぐきも頭も心も震えていた。おかげでわたしという存在全体にバイブレーションが巻き起こっていた。
 
 
…舞台。そう、それは、家で弾いている時とそう変わるはずはないのに。
 
私の前にはピアノがあり、黒い板と白い板が横たわる。お尻には椅子、後ろには壁、空には太陽と雲がある。
 
それなのに…
 
どうして人前というだけで
手足よ そに震えることぞ
 
古来から、このような現象と人類は戦ってきた。
人をかぼちゃに変える禁断の魔法や、手のひらを用いた黒魔術的な暗示法を開発し、後世にたゆまず伝えてきた。
目に映る世界をいくらか快くしようと、人は創意工夫をしてきたのである。
 
わたしは人前で黒魔術も魔法もたしなまない堅実派なので、人人人と書いた手のひらを飲み込むイメージを50回ほど繰り返すだけですませた。おかげで無料で環境も汚したりする心配も無用だ。
 
ピアノの先生によれば、
演奏が終わったときに、
「あ、私なにしていたのかしらちゃんと弾いていたかしら!」
といった状態は望ましくなく、また、日頃虐げられている中流下級市民である私が人前で演奏をできるという極めて貴重な機会を前にして、あまりに勿体ないというわけである。
 
先生の顔は輝いていた。
ピアノも輝いていた。
 
目指すはのだめ(野田恵)である。
のだめは猫背であるからその点は磐石だ。
 
 
目の端に映るギャラリーなぞに囚われない。ここは自分の部屋で、目の前にすばらしいピアノがある。 ただそれだけが私の世界である。
 
わたしは弾いた。
 
自慢ではないが練習でも1度も間違えずに弾けたことはない。
また、自慢ではないが
楽譜は読めない。ので暗譜である。
 
わたしは手ぶらで客席と舞台との間にある、目に見えないフラットな境界をくぐり抜けると、
弾いた。
 
飛び立っていく紅の飛行機と、それを見上げるジーナを想って弾いた。
 
目の端に男児が見えた。
男児といっても多分高校生くらいである。
男児は落ち付きがなく、体を前後に揺さぶってみたり、下を向いたりしていた。
 
私はその男児のために弾いた。
落ちつきのない男児の人生のために弾いた。
 
 
結果として、とてもよく弾けた。
わたしすばらしかった。